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● 障害児教育と教育基本法について、教育の多様性の会のMLに書いたものを一部手をいれて採録いたします。

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私も、「自然法」ということは、なんどか関曠野さんから教わるまでは、まったく眼中にありませんでした。が、憲法というものを考え、そして、「法」ということをみるには、西欧の政治思想の根幹をなしてきた「自然法」をみないわにはいかないと思うようになりました。しかし、翻訳で読める「自然法」の概論的な文献は皆無に近いです。重要なものは、すべて、原書にあたらないといけません。ここでは、わずかに読める翻訳文献と時代塾改憲サイトの関さんのコラムや自然法関連の文章をたよりに自分なりの解釈で考えてみます。

結論的には、「人類普遍の原理」でいいのですが、別に神秘的なものではありません。それから、「法」は歴史的な発展をしてきていますから、自然法のありかたも、トマス・アキナスとロックでは違ってきています。ですから、普遍といっても、なにか、固定化した文言ではないのです。たとえば、赤十字のサイトの「国際人道法」の解説には、「国際人道法」の源流として、旧約聖書の「十戒」なんかをあげていると記憶しています。

さて、私達は、教育を議論する上で、「自然法」思想の何から学べばいいのでしょうか。

それは、次のような、ソフォクレスのアンチゴーネのことから学べると思います。
アンチゴーネは、国にそむいた兄のなきがらを葬ってはならない、ということについて、王に反論します「あなたのおふれが、人の身として、神々の不文のおきてを破ることができるほどに強いものとは、私は思いませんでしたーーーー兄弟を葬るよりも立派な名誉がどこから得られましょうか」というのです。これは、国家の法に対して個人の尊厳を有する「感性」的な原理の問題だといえるでしょう。つまり、国家の制定する「実定法」も人が有するモラルの法には従わなければならない、ということなんです。これが、国家を制限する自然法的正義の論理だと思います。

これが、キリスト教の考えと合流し、中世では、トマス・アキナスがその最大の理論家です。
トマス・アキナスは、個人が国家に全面吸収されることはありえない、個人の人格は自然法により保護され、その自然法の根拠は神にあるとします。これは、のちのホッブズやロックの自然権の考え方と違う側面もありますが、基本の論理は同じではないかと考えます。(このことは、違う見解もあるので、もうすこし検討が必要です。

いずれにしても、国家の定める実定法も、自然法のモラルには従わなければならないーーということが、国家の権力を制限する「立憲主義」につながります。

さて、教育基本法にもどりますが、田中耕太郎が言うように教育基本法が自然法に基づくとなると、冒頭の文言の主語が「われらは」というのがうなずけます。国家を制限する自然法ですから、国民が主語にはなりえません。われらは、とか、すべての人(民、人民)は、とかが主語になります。

ただ、現代の課題を考えると、民のモラルに根ざす自然法的正義からいって、教育基本法の文言があれでいいのか?それから、自然法の発展形態である、国際人権法、特に「子どもの権利条約」などとくらべて、教育基本法はあれでいいのか?ということは議論が必要だと考えます。たとえば、障害児教育の分野に一部かかわるものとしてみると、教育基本法の第三条「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会をーーー」とありますが、この「能力に応じて」というのが曲者で、これを解釈して、障害児は「養護学校にその能力に応じていってくれ」ということになりかねません。子どもの権利条約的には、保護者および本人の「学校や教育機会の選択権」を重視してもらうような文言にすべきではないでしょうか。

能力という言葉は、実に政治的イデオロギーにみちていて、能力がある・ないなんて、評価する人間・および、その関係性でどのようにも変化します。能力などという実体はないと考えるべきです。

ということを「自然法」の議論から派生して考えてみてはいかがでしょうか。

(上記の自然法関連の議論は、関さん以外の論考ではダントレーヴ「自然法」・岩波書店および井上茂「自然法の機能」・けい草書房などから学びました。他にもカーライルやトレルチなどなど、の未邦訳文献およびロックやグロチウス、ルソーなどの古典からもいろいろ学べると思います)

【以上、白崎一裕記】

 

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