コラム

「障がいのある人の権利に関する条約」 ならびに 「障がいのある人の権利に関する条約の選択議定書」 川島聡・長瀬修 仮訳(2007年3月29日付訳)

同上 (MS-Wordファイル 128KB)

上記で、「障がいのある人の権利に関する条約」の仮訳が読めます。

こういう国際人権法が国内法になるように、繰り返し、主張する必要があります。

 

 


●「子どもの権利条約」の第29条は「教育の目的」ですが、いま、国会で議論されている「教育の目的」という次元とはかなり違うことを主張しているようです。それは、教育目的を「国家」が法定化するものとは異なる解釈です。私は、特にその中の、2の文書に注目します。

そこには、「子どもをエンパワー(元気に)すること」「ライフスキルの提供」「人権を享受する能力の強化」
「人権に関する適切な価値を吹き込まれた文化」「子どもをエンパワーすることが目的で、そのような意味の
「教育」は正規の学校教育をはるかに超えていく、生活経験と学習のプロセスを含む」


などのような、極めて、興味ぶかい文章があるわけですが、こういうことを議論しながら「公教育」の再生に向けて考えるならば少しは意味はあるのですがーー。

つまり、教育とは、子どもをエンパワーするためのもので、人権ということの価値・文化を享受し促進するために
あるということです。これで、十分なんです。

この「国連・子どもの権利委員会のコメント、2001、2,8」は、大変、面白い内容なのですが、このメールでは
世取山洋介氏の仮訳文を、二項までご紹介しておきます。

全文は、以下でみることができます。

http://homepage2.nifty.com/1234567890987654321/Aims-of-edu_(J).htm

英文は以下です。

http://homepage2.nifty.com/1234567890987654321/Aims-of-Education.html

ーーーーーーー以下・貼り付けーーーーーーーーーーー

子どもの権利条約 第29条1項
1 締約国は、子どもの教育が次のことを指向すべきことに同意する。
(a) 子どもの人格、才能、ならびに、精神的および身体的能力をその可能最大限度まで発達させること。
(b) 人権および基本的自由ならびに国際連合憲章にうたう原則に対する尊重を発達させること。
(c) 子どもの父母、子ども自身の文化的アイデンティティ、言語および価値、子どもの居住国および出身国の国民的価値観、ならびに自己の文明と異なる文明に対する尊重を発達させること。
(d) 理解、平和、寛容、および両性の平等に関する精神、ならびに、すべての人民、民族的、国民的、宗教的集団、および先住民の間の友好の精神に従い、自由な社会における責任ある生活のために子どもを準備させること。
(e) 自然環境に対する尊重を発達させること。

——————————————————————————–

一般的注釈1(2001):教育の目的

(a)第29条1項の意義

1. 条約29条1項の重要性は広範囲にわたる。本条項に定められ、すべての締約国によって合意された教育の目的は、本条約の本質的な価値、すなわち、あらゆる子どもが生まれながらに有している人間としての尊厳および平等かつ不可侵の権利を促進し、援助し、かつ保護する。

 条約29条1項の5つの号に定められているこれらのすべての目的は、発達に関する子どもの特別のニーズおよび子どもの発達しつつある多様な能力を考慮するものであり、子どもの人間としての尊厳および子どもの権利の実現と直接に結びついている。これらの目的とは、人権に対する尊重の発達(29条1項(b))、アイデンティティおよび帰属(affiliation)に関する感覚の強化(29 条1項(c))、子どもの社
会化および他者との主体的交流(interaction)(29条1項(d))、および子どもの環境との主体的交流(29条1 項(e))を含む子どもの可能性すべての全面的な発達(29条1項
 (a))である。

2. 29条1項は、28条において認められている教育に関する権利を、子どもの権利および子ども固有の尊厳を実現する質的内容によって補充するだけでない。本条項は、教育が子ども中心的なもの、子どもに役立つもの、および子どもをエンパワーするものである必要性を強調する。さらに、教育のプロセスが、29条1項に表明されているまさにその原則に基づく必要性を強調する(1)。

 あらゆる子どもが権利を有する教育は、子どもにライフ・スキルを提供し、すべての範囲の人権を享受する子どもの能力を強化し、かつ、人権に関する適切な価値を吹きこまれた文化を促進するよう設計(design)されたものである。子どものスキル、学習能力、その他の能力、人間としての尊厳、および自尊心と自信を発達させることにより、子どもをエンパワーすることが目的なのである。

 このような意味の「教育」は、正規の学校教育をはるかに超えて、その人格および才能と能力を発達させ、かつ、社会において十全かつ満足のいく生活を送ることを子ども個人および子ども集団に可能とする広い範囲にわたる生活経験と学習のプロセスを含むのである。


【白崎・記】

 A.仕事の中でよく出くわす言葉に、「できる」「できない」があります。障害のあるお子さんの場合でも、このことがいつもついて回る。これが、学校へ行くとなるとまたそれが加速されます。

「できる」、「できない」という言葉をめぐって、MOVEのMLに投稿した文章を導入としていろいろ考えてみます。

私たちがもっている、「学力」とか「勉強」とか「能力」とかいう思い込みを一度「チャラ」にして、障害児教育とか普通学級の教育とか区別しないで、考え直そうということです。学力とは何でしょうか?能力とは何でしょうか?

私は、その客観的な「実体」はないと考えています。能力とは人と人との関係のなかに存在します。ある人にとって感謝されたり、啓発されたり、感動したりすることが「能力」や「学力」と考えています。それをあたかも「点数」によって計測できたりすると思うのは、私たちの社会がもっている「罠」だと思います。

別の研究会でもある人と論争になったことがあります。その人は、自閉やADHDや知的障害のある子どもにもなんとか小数や分数の意味ぐらいは理解してもらわないといけないと発言しました。私はそれに対して、「健常といわれる子どもでも、自分の私塾の経験から、分数の意味がどうしても理解できないお子さんがいた。それでも消費税の買い物は電卓もあるし、計算はバーコードつきの読み取り機があるから不自由しないではないか?それよりも分数ができないことに劣等感をもつより、どんどん街に世間に出て、わからないことは人に聞き、助けてもらい生活を充実すべきではないか、車椅子の身体障害の人に「あなたは車椅子を使っているから歩行の本質を理解していない」なんていわないでしょう。まずは行きたいところに移動できれば良いのですから。それに、われわれも大人になって通分なんて使わないし、なんで分数の割り算を分母と分子ひっくりかえしてかけるのか解らないでしょう?」と切り替えして議論が平行線をたどったことがあります。これは、今の教育では、特別支援教育かインクルージョンかという問題軸になるかもしれません。

小児科医の山田真さんは、こう言われています。「一般に知的障害の子どもと健常な子どもの学力の差は年齢があがるにつれて大きくなる、そのうちに何倍の時間をかけても健常な子どもに追いつけなくなる、そうなると追いつこうとしてがんばって、追いつけなくなったとき親もつらいでしょうが、そこまでがんばった子どもはもっとつらくなる」(「おそい・はやい・ひくい・たかい」17号、ジャパンマシニスト社 p66)というのです。そうだと思います。これは普通学級の中にもある問題ですから。

学校の役割とはなんでしょう。学力をつけることが学校の役割でしょうか。本当はそうではないと私は考えています。学校とはどのような人でも、相互扶助と信頼に基づいた市民の一員となるようなことを自覚する「特別な場所」だと考えています。それがいつの間にか、産業社会に適応させる「学力主義」「能力主義」の養成所になっています。そのことを気づかせ反省するために「インクルージョン」という考えは生まれてきたのだと思います。インクルージョンの教育の中に特殊教育といわれるものも包摂されるものと考えます。

ここで、MOVEの基本理念にかえってみましょう。MOVEでは運動技能は「日常生活に役立つ」ということを基準にその獲得が考えられていますね。学力だって、そう考えれば、日常生活を元気に、ハッピーにすごすために学力があると考えれば、元気をなくす「学力」なんてナンボノモンジャと開き直るのも手ではないかと考えるのです。

学力だけが人生じゃない、自分のペースでゆっくり、スローに、学力なんていうチンケなもの以外の人生にとって獲得することを広げていこう」というのが私の基本のスタンスです。

03/08/21(Thu)

いつも、楽しく読ませていただいている、斉藤明子さん(コミュニティサポート研究所)編集の「こむさ」第3号が

送られてきました。

 今号は、前号から続く、座談会がメインで、そこでのテーマは「自立」。

それに、触発されてということで、誌上参加の尾上浩二さん(DPI日本会議事務局長)の「「自立支援法」の自立論」という文章に目がとまりました。私も、これに「触発されて?」、何回かに分けて、「自立って何だろう?」ということを考えてみたいと思います。

 

まずは、尾上さんの書いておられることは、とても有益なので、少しご紹介します。

これを読んで興味をもたれた方は、ぜひ、「こむさ」をご購読ください。問合せ先は、コミュニティサポート研究所

電話・FAX 03-3235-5637 です。

 

 尾上さんは、次のようにおっしやってます。

 

「 こんどの「障害者自立支援法」には、第一条(目的)というところがあって、そこに、「その有する能力及び適性に応じた自立した生活」とあるが、この「能力及び適性」というのは、いったい、誰が決めるんだろう?と疑問をもつ。決めるのは「専門家」なんだろうか?

 

 次に、自立支援法がでてくるきっかけとなった、「支援費制度」は実は、1990年代から当事者発・地域発で取り組まれてきた地域生活支援を、国の制度として採用しようとした側面は忘れてはならない。また、それに関連して、ガイドヘルプは、単なる「外出時の付き添い」というよりは、社会参加とそれに伴うコミュニケーションの支援で、これは、諸外国で実施されているパーソナルアシスタンス・サービスの日本における先例ともいえる、ということで、こういう個々のニードに対応することが重要だ。こういう当事者運動の成果が「自立支援法」施行後も、後退しないように自治体への働きかけが必要。

 

 自立支援法の議論では、いろいろな疑問点がうかびあがってきた。

 

一、議論のもとの基礎データが不十分。障害者医療の利用件数が一ケタ多かった。

二、日本の障害者関連予算は、経済先進国(OECD諸国)で最低。加えて、地域生活サービス予算は施設に比べて五分の一。

三、支援費制度は破綻した!と政府側などの人は言うが、これは、サービスが利用しやすくなり、使う人が増えただけで、たんなる準備不足。その不足だって、国家予算全体の0.03%に過ぎない。

四、緊急性が必要なのは、精神障害者の人々が、まずは、身体障害者と同程度のサービスを受けられるようにすること。

五、「支援費制度では、地域格差は7倍」というように言われるが、これも、最近のデータをよくみると、支援費がでて、格差がひろがったのではなくて、いままでは、知的障害者のヘルプサービスでも、支援費がはじまって、3割実施から5割実施になったぐらいである。また、ヘルパー利用者の格差で出される、秋田や福井と大阪府だが、そもそも、秋田や福井は、障害者の入所施設整備率は全国トップ。施設が優先していたので、地域生活サービスの充実にすすんでいないーーだから、ヘルパー利用が少ないーーということで、地域格差の中身を十分吟味しないといけない。

 

これらの疑問の「対案」は、当事者発のサービスの中にある。

 

また、グランドデザインから「自立支援法」の議論の中ででてきた「国民的合意」、「公平」、「ユニバーサルな仕組み」という言葉のひとつひとつを再検討・再提案することが必要だ。」

 

というようなことです。最後の「国民的合意」、「公平」、ユニバーサルな仕組み」ということの内容については、また、再度、私の議論の中で詳細に考えてみます。(続く)

 

【白崎一裕 2006年1月6日】

 

Q「できる」?「できない」?人間の能力とは?



 A.仕事の中でよく出くわす言葉に、「できる」「できない」があります。障害のあるお子さんの場合でも、このことがいつもついて回る。これが、学校へ行くとなるとまたそれが加速されます。


「できる」、「できない」という言葉をめぐって、MOVEのMLに投稿した文章を導入としていろいろ考えてみます。


私たちがもっている、「学力」とか「勉強」とか「能力」とかいう思い込みを一度「チャラ」にして、障害児教育とか普通学級の教育とか区別しないで、考え直そうということです。学力とは何でしょうか?能力とは何でしょうか?


私は、その客観的な「実体」はないと考えています。能力とは人と人との関係のなかに存在します。ある人にとって感謝されたり、啓発されたり、感動したりすることが「能力」や「学力」と考えています。それをあたかも「点数」によって計測できたりすると思うのは、私たちの社会がもっている「罠」だと思います。


別の研究会でもある人と論争になったことがあります。その人は、自閉やADHDや知的障害のある子どもにもなんとか小数や分数の意味ぐらいは理解してもらわないといけないと発言しました。私はそれに対して、「健常といわれる子どもでも、自分の私塾の経験から、分数の意味がどうしても理解できないお子さんがいた。それでも消費税の買い物は電卓もあるし、計算はバーコードつきの読み取り機があるから不自由しないではないか?それよりも分数ができないことに劣等感をもつより、どんどん街に世間に出て、わからないことは人に聞き、助けてもらい生活を充実すべきではないか、車椅子の身体障害の人に「あなたは車椅子を使っているから歩行の本質を理解していない」なんていわないでしょう。まずは行きたいところに移動できれば良いのですから。それに、われわれも大人になって通分なんて使わないし、なんで分数の割り算を分母と分子ひっくりかえしてかけるのか解らないでしょう?」と切り替えして議論が平行線をたどったことがあります。これは、今の教育では、特別支援教育かインクルージョンかという問題軸になるかもしれません。


小児科医の山田真さんは、こう言われています。「一般に知的障害の子どもと健常な子どもの学力の差は年齢があがるにつれて大きくなる、そのうちに何倍の時間をかけても健常な子どもに追いつけなくなる、そうなると追いつこうとしてがんばって、追いつけなくなったとき親もつらいでしょうが、そこまでがんばった子どもはもっとつらくなる」(「おそい・はやい・ひくい・たかい」17号、ジャパンマシニスト社 p66)というのです。そうだと思います。これは普通学級の中にもある問題ですから。


学校の役割とはなんでしょう。学力をつけることが学校の役割でしょうか。本当はそうではないと私は考えています。学校とはどのような人でも、相互扶助と信頼に基づいた市民の一員となるようなことを自覚する「特別な場所」だと考えています。それがいつの間にか、産業社会に適応させる「学力主義」「能力主義」の養成所になっています。そのことを気づかせ反省するために「インクルージョン」という考えは生まれてきたのだと思います。インクルージョンの教育の中に特殊教育といわれるものも包摂されるものと考えます。


ここで、MOVEの基本理念にかえってみましょう。MOVEでは運動技能は「日常生活に役立つ」ということを基準にその獲得が考えられていますね。学力だって、そう考えれば、日常生活を元気に、ハッピーにすごすために学力があると考えれば、元気をなくす「学力」なんてナンボノモンジャと開き直るのも手ではないかと考えるのです。


学力だけが人生じゃない、自分のペースでゆっくり、スローに、学力なんていうチンケなもの以外の人生にとって獲得することを広げていこう」というのが私の基本のスタンスです。
 
03/08/21(Thu)

●以下は、あるメールでのご質問に対するお答えです。


生存権の問題は極めて重要です。

生存権を保障していない国の憲法で有名なのは、アメリカ合衆国憲法です。アメリカ憲法には、そもそも社会権の観念がありません。それから、福祉でよく話題に出される、スウェーデンやデンマークはどうでしょう。これも日本国憲法の生存権とは一味違っています。たとえば、スウェーデン統治法典第二条4項ですが、

「4 公共機関は、社会のあらゆる分野における指針としての民主主義の理念を尊重し、および国民の私生活および家族生活を保護しなければならない。 公共機関は、すべての人が、社会生活における参加と平等のための機会が得られるように努めなければならない。
 公共機関は、性、皮膚の色、国籍または人種、言語または宗教的帰属、障害、性的志向、年齢その他個人的事由に基づく差別と闘わなければならない。」

とういうようなことで、「平等権」のニュアンスが強いです。デンマーク憲法は75条二項で、
「自己またはその扶養者の生活を維持することができない者は、ほかにその扶養に任ずるものがない場合、
公的扶助を受けることができる。----」とあります。これは、公的扶助(所得保障)のことですね。

日本の生存権は、マッカサー憲法草案にかかわったベアテ・シロタがいろいろワイマール憲法などをひっくり返して原案をつくったのですが、最初の彼女の案は、国連憲章や国際労働機関基準など国際法を意識した具体的なものでした。それが、あとで、削られていまのようになりました。

これは、私見ですが、「健康で文化的な最低限度の生活」というのは、行政に恣意的な解釈をさせる問題の多い文言だと思われます。「最低限度」という文言をはずして、世界人権宣言や国際人権規約(国際法基準)のような「人間の尊厳ある生活」とかいう文言に変えて、そして、スウェーデンのように、公的機関に差別と闘う義務を課す規定も設けてもっと厳密にすべきです。あいまいで、パターナリズム的(温情主義)な生存権規定は、あのナチスが生存権を利用して支持をひろげたことからみても危険だと思います。


【白崎・記】




 

2004年1月にまとめられた障害者の権利条約草案の翻訳(長瀬修さん、川島聡さん訳)が日本障害者リハビリテーション協会のサイトに掲載されています。

http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/rights/0401reports.html

この15条や16条は、子ども達の権利や教育について書かれていますが、この草案でも、「教育への権利」「教育の選択の権利」がきちんと書かれています。こういう国際法が国内法になるように憲法をきちんとしてほしいものです。

子どもの権利条約は以下で読めます。日本政府は批准しながら、国内法の改正を十分におこなっていません。子どもの権利条約は、国際法の発展形態のひとつの結晶です。ひとりひとりの、そして、次世代の「人権」を保護するものとしてみたいものです。


http://www6.ocn.ne.jp/~ncrc/doc_1crcj.htm


 

サラマンカ宣言は以下で読めます。日本の教育は、こういう国際人権法などを国内法として整備して、教育の再定義を進めなければならないでしょう。いまだ、鎖国状態の教育環境では困ります。世界人権宣言や子ども権利条約をきちんと読めば、障害のある子ども達の環境をどうするかの目的は自ずからあきらかとなるはずです。


http://www.dove.ne.jp/sumomo/siryou_folder/Salamanca.html


 


 

MOVEのセミナーで通訳をお願いしている齋藤明子さんが訳された、
アメリカ・カリフォルニア州のピープルファースト
(知的障害者の人たちの当事者運動)が
作成したポスターの内容が斉藤さんが発行する「こむさ」
に掲載されていて、私は、とても気に入りましたので、
こちらのMLへもご紹介いたします。
(私の蛇足のコメントつきです)


「こむさ」の入手は次のところへ。


コミュニティサポート研究所 


東京都文京区関口1-16-1東海文京マンション701
電話・FAX 03-3235-5637


ーーーーーーーー以下・貼り付けーーーーーーーーー


私たちはピープルファーストです。
私たちの障害はふつうの生活の一部です。
市民として他の人と同じ権利を持ち同じ責任をはたします。
そのために必要な援助を受ける権利があります。


      <権利>                        


普通の人と同じように生きる             


自分で選んだ人間関係をもつ     
                                  
必要な医療を受ける               


学ぶ力があるすべてのことを学ぶ       


自分の生活を管理して、危険があっても挑戦し、選ぶ
                            
自分が望むように変化する           


施設に入らず自由でいる         


希望や夢をもつ                       


他の人と平等に扱われる              


自分の気持ちや意見を持ち、発表し、それをまじめに聞いてもらう 


自分の欲しいものを頼む自由          


人に、事業所に、政府に対して自分の権利を守る                        


虐待を受けない                  


働く                         


楽しむ                       


専門家から情報を得る             


プライバシーをもつ 


       
      <責任>


自分や人を傷つけない   


他の人を平等にあつかい、尊敬の気持ちをもってつきあう。       


健康に注意して必要なときには助けをもとめる。


学んだことを使う


自分が選んだことの責任はとる   
                                
人を頼りにして自分の限界を周囲の人に知らせる


(施設でない) 場所でくらし、他の人に暴力を振るわない


自分に自信を持ち、自分を管理して、自分に腹を立てない          


平等な人間として行動する  


正しいことは何かを見つけ、自分でできる方法で主張する 


何かをして欲しいときには人に頼む


強くなり、怖さに立ち向かい、必要なときには援助を求める


誰かに傷つけられたら報告する


仕事をきちんとする


楽しむときに人を傷つけない


入手した情報について考える


ひとりになれる場所を求める


(「こむさ創刊号P32~33、(コミュニティサポート研究所)斉藤明子訳」より) 
              
*アメリカの障害者当事者運動のポスター文面。憲法条文ではないが、
「権利と義務」ということを考えるために資料として掲載した。権利を主張し
、他者に対して責任を果たすという姿勢がよくでている。
アメリカのような「過酷な」福祉政策の下で鍛えられてきた自立生活運動
(IL運動)の成果をみる。[白崎・記]*


 
 
05/09/17(Sat)