ここのところの社会保障政策の大枠は、新自由主義が優勢で、「マーケットにまかせればうまくいく」という思考パターンがおおっているようですが、本当にそうでしょうか。この思考パターンからの解放をめざして、これからしばらく、日本の社会保障の全般にわたって様々な視角から論じてみたいと思います。
日本では、アメリカのような障害者差別禁止法(ADA)がないため、日本版ADAを制定しようとする動きが各方面でなされていますが、ここではまず最初に、もともと法律の根本である「憲法」と障害者のかかわりについて考えてみたいと思います。
そもそも、憲法というのは、日本人にとってなじみのないもので、政策論争で護憲か改憲かということで9条などが話題になりますが、なんだか「タテマエ」でできあがっているものという印象が強いのはないでしょうか。しかし、憲法による政治、つまりは「立憲主義」というのは西欧の宗教戦争や各種地域紛争などの苦い政治的経験の中から生まれてきた、最良の遺産のひとつと言って良いと思われます。それを「タテマエ」として抱え込んでいるだけではもったいないことです。
「比較立憲主義」(注1)という本の中でC・J・フリードリヒは「立憲主義とはフェア・プレイを保障し、かくして政治を「責任あるもの」にする規範の総体である。」と言っています。つまりは、憲法とは「正義」へのガイドブックのようなものです。ここがしっかりしないと社会の秩序がどんどん混乱することになります。ですから、日本以外の国々では、憲法をより良いものにしていこうと何度も改正しているところがかなりあります。
まずは、スイス憲法をみてみましょう。スイスの民主主義は、独特の形体をもっていて、スイス人自身は「協定民主主義KONKORDANZDEMOKRATIE」とよんでいます。その原則は、多数決をとらず、「切り捨てられた」と感じる人を一人も出さないことを理念としていることです。(具体的には、ウェッブサイトの「野良猫ジャーナル・関曠野コラム 「民主主義さまざま」2003年11月号 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4041/seki/0401.html」を参照。)
そのスイスの憲法前文をみてみましょう。
「----自由および民主主義と、世界に対する連帯と公開の中での独立および平和とを強化するために連邦をつねに革新する努力において、統一の中の多様性を相互に顧慮し、またそれに留意しつつ生きることの意志において、将来世代に対する共同の成果と責任との自覚において、自己の自由を(眠らせることなく)行使する人だけが自由であること、および、共同体の強さは、その成員の中のもっとも弱い者の生き甲斐によって測られることを確信しつつ、以下の憲法を制定する」(「解説・世界憲法集第四版」樋口陽一・吉田善明編、三省堂より引用。ただし、訳文の一部は、関曠野氏の訳を用いて若干の修正をしています)とあります。
この憲法前文からも、少数者の尊重ということに神経を使っていることがよくわかります。さきほどの「協定民主主義」のことも関連しているでしょう。 特に共同体(国家・地域社会のことをさす)の強さが、社会的に弱い立場の人の尊厳によって決まるという思想は、現在の日本人が特に学ぶべき思想といえると思います。
さて、スイス憲法(2000年版)の憲法第八条(法的平等)の項目をみてみましょう。
「第二項 何人も、とりわけ、出生、人種、性別、年齢、言語、社会的地位、生活様式、宗教的、・世界観的もしくは政治的信条を理由とし、または、身体的・知的もしくは精神
医学上の障害を理由として、差別されてはならない。」(前掲書「解説・世界の憲法集第四版」より)
とあります。日本国憲法でも第14条に「法の下の平等」はあるのですが、このスイス憲法のような具体性には欠けます。スイス憲法は暮らしに根ざす具体性に特徴があり、素人くさい憲法ともいわれるのですが、法の精神と暮らしが分離しないように努力している証といえるかもしれません。この文言でも、「障害者は差別されてはならない」ということがきちんと明記されています。
この稿は続きますが、いくつか、障害者が憲法でどのように扱われているか調べてみましょう。