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コラム

障害学のMLでかさはらさんというアメリカの大学にいる方から、インクルージョン教
育とインテグレーション教育
の違いをうまく図にしたものを教えてもらいました。

http://www.eenet.org.uk/theory_practice/bonn_2.shtml#squareholes

まあ、日本では、「統合」という具体像はまだまだかもしれませんが、参考になりま
した。
図だけ見ていてもなーるほど、と思います。

(この文章は、MOVE・メーリングリストの過去の発言から転載しています)


ここのところの社会保障政策の大枠は、新自由主義が優勢で、「マーケットにまかせればうまくいく」という思考パターンがおおっているようですが、本当にそうでしょうか。この思考パターンからの解放をめざして、これからしばらく、日本の社会保障の全般にわたって様々な視角から論じてみたいと思います。


 ①憲法と障害者 (スイス憲法編)
日本では、アメリカのような障害者差別禁止法(ADA)がないため、日本版ADAを制定しようとする動きが各方面でなされていますが、ここではまず最初に、もともと法律の根本である「憲法」と障害者のかかわりについて考えてみたいと思います。

そもそも、憲法というのは、日本人にとってなじみのないもので、政策論争で護憲か改憲かということで9条などが話題になりますが、なんだか「タテマエ」でできあがっているものという印象が強いのはないでしょうか。しかし、憲法による政治、つまりは「立憲主義」というのは西欧の宗教戦争や各種地域紛争などの苦い政治的経験の中から生まれてきた、最良の遺産のひとつと言って良いと思われます。それを「タテマエ」として抱え込んでいるだけではもったいないことです。

「比較立憲主義」(注1)という本の中でC・J・フリードリヒは「立憲主義とはフェア・プレイを保障し、かくして政治を「責任あるもの」にする規範の総体である。」と言っています。つまりは、憲法とは「正義」へのガイドブックのようなものです。ここがしっかりしないと社会の秩序がどんどん混乱することになります。ですから、日本以外の国々では、憲法をより良いものにしていこうと何度も改正しているところがかなりあります。
 
まずは、スイス憲法をみてみましょう。スイスの民主主義は、独特の形体をもっていて、スイス人自身は「協定民主主義KONKORDANZDEMOKRATIE」とよんでいます。その原則は、多数決をとらず、「切り捨てられた」と感じる人を一人も出さないことを理念としていることです。(具体的には、ウェッブサイトの「野良猫ジャーナル・関曠野コラム 「民主主義さまざま」2003年11月号 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4041/seki/0401.html」を参照。)
そのスイスの憲法前文をみてみましょう。

「----自由および民主主義と、世界に対する連帯と公開の中での独立および平和とを強化するために連邦をつねに革新する努力において、統一の中の多様性を相互に顧慮し、またそれに留意しつつ生きることの意志において、将来世代に対する共同の成果と責任との自覚において、自己の自由を(眠らせることなく)行使する人だけが自由であること、および、共同体の強さは、その成員の中のもっとも弱い者の生き甲斐によって測られることを確信しつつ、以下の憲法を制定する」(「解説・世界憲法集第四版」樋口陽一・吉田善明編、三省堂より引用。ただし、訳文の一部は、関曠野氏の訳を用いて若干の修正をしています)とあります。
 
この憲法前文からも、少数者の尊重ということに神経を使っていることがよくわかります。さきほどの「協定民主主義」のことも関連しているでしょう。 特に共同体(国家・地域社会のことをさす)の強さが、社会的に弱い立場の人の尊厳によって決まるという思想は、現在の日本人が特に学ぶべき思想といえると思います。

さて、スイス憲法(2000年版)の憲法第八条(法的平等)の項目をみてみましょう。

「第二項 何人も、とりわけ、出生、人種、性別、年齢、言語、社会的地位、生活様式、宗教的、・世界観的もしくは政治的信条を理由とし、または、身体的・知的もしくは精神
医学上の障害を理由として、差別されてはならない。」(前掲書「解説・世界の憲法集第四版」より)

とあります。日本国憲法でも第14条に「法の下の平等」はあるのですが、このスイス憲法のような具体性には欠けます。スイス憲法は暮らしに根ざす具体性に特徴があり、素人くさい憲法ともいわれるのですが、法の精神と暮らしが分離しないように努力している証といえるかもしれません。この文言でも、「障害者は差別されてはならない」ということがきちんと明記されています。

この稿は続きますが、いくつか、障害者が憲法でどのように扱われているか調べてみましょう。


「(注1)「比較立憲主義(Limited Government: A Comparison)」C.J.フリードリヒ著、清水望・渡辺重範・大越康夫訳)。早稲田大学出版部」

● 障害児教育と教育基本法について、教育の多様性の会のMLに書いたものを一部手をいれて採録いたします。

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私も、「自然法」ということは、なんどか関曠野さんから教わるまでは、まったく眼中にありませんでした。が、憲法というものを考え、そして、「法」ということをみるには、西欧の政治思想の根幹をなしてきた「自然法」をみないわにはいかないと思うようになりました。しかし、翻訳で読める「自然法」の概論的な文献は皆無に近いです。重要なものは、すべて、原書にあたらないといけません。ここでは、わずかに読める翻訳文献と時代塾改憲サイトの関さんのコラムや自然法関連の文章をたよりに自分なりの解釈で考えてみます。

結論的には、「人類普遍の原理」でいいのですが、別に神秘的なものではありません。それから、「法」は歴史的な発展をしてきていますから、自然法のありかたも、トマス・アキナスとロックでは違ってきています。ですから、普遍といっても、なにか、固定化した文言ではないのです。たとえば、赤十字のサイトの「国際人道法」の解説には、「国際人道法」の源流として、旧約聖書の「十戒」なんかをあげていると記憶しています。

さて、私達は、教育を議論する上で、「自然法」思想の何から学べばいいのでしょうか。

それは、次のような、ソフォクレスのアンチゴーネのことから学べると思います。
アンチゴーネは、国にそむいた兄のなきがらを葬ってはならない、ということについて、王に反論します「あなたのおふれが、人の身として、神々の不文のおきてを破ることができるほどに強いものとは、私は思いませんでしたーーーー兄弟を葬るよりも立派な名誉がどこから得られましょうか」というのです。これは、国家の法に対して個人の尊厳を有する「感性」的な原理の問題だといえるでしょう。つまり、国家の制定する「実定法」も人が有するモラルの法には従わなければならない、ということなんです。これが、国家を制限する自然法的正義の論理だと思います。

これが、キリスト教の考えと合流し、中世では、トマス・アキナスがその最大の理論家です。
トマス・アキナスは、個人が国家に全面吸収されることはありえない、個人の人格は自然法により保護され、その自然法の根拠は神にあるとします。これは、のちのホッブズやロックの自然権の考え方と違う側面もありますが、基本の論理は同じではないかと考えます。(このことは、違う見解もあるので、もうすこし検討が必要です。

いずれにしても、国家の定める実定法も、自然法のモラルには従わなければならないーーということが、国家の権力を制限する「立憲主義」につながります。

さて、教育基本法にもどりますが、田中耕太郎が言うように教育基本法が自然法に基づくとなると、冒頭の文言の主語が「われらは」というのがうなずけます。国家を制限する自然法ですから、国民が主語にはなりえません。われらは、とか、すべての人(民、人民)は、とかが主語になります。

ただ、現代の課題を考えると、民のモラルに根ざす自然法的正義からいって、教育基本法の文言があれでいいのか?それから、自然法の発展形態である、国際人権法、特に「子どもの権利条約」などとくらべて、教育基本法はあれでいいのか?ということは議論が必要だと考えます。たとえば、障害児教育の分野に一部かかわるものとしてみると、教育基本法の第三条「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会をーーー」とありますが、この「能力に応じて」というのが曲者で、これを解釈して、障害児は「養護学校にその能力に応じていってくれ」ということになりかねません。子どもの権利条約的には、保護者および本人の「学校や教育機会の選択権」を重視してもらうような文言にすべきではないでしょうか。

能力という言葉は、実に政治的イデオロギーにみちていて、能力がある・ないなんて、評価する人間・および、その関係性でどのようにも変化します。能力などという実体はないと考えるべきです。

ということを「自然法」の議論から派生して考えてみてはいかがでしょうか。

(上記の自然法関連の議論は、関さん以外の論考ではダントレーヴ「自然法」・岩波書店および井上茂「自然法の機能」・けい草書房などから学びました。他にもカーライルやトレルチなどなど、の未邦訳文献およびロックやグロチウス、ルソーなどの古典からもいろいろ学べると思います)

【以上、白崎一裕記】